「朱華」 「はい」 ここ数日、未晩のようすは、どこかおかしい。その理由が、自分にあることに、朱華も気づいている。だから、仕事が終わったというのに姿勢を正して、未晩を見つめ返す。「もうすぐ、誕生日だね……これが、何を意味するかわかっているかい?」 口ごたえなど許さないと言いたげな、翡翠色の鋭い眼光が朱華の菫色の双眸を射る。「……二十歳になったら、師匠の妻になること、ですね」 「僕は朱華と結婚してほんとうの意味で家族になりたい。きみは頷いてくれたが、ほんとうに、それで構わないのかい?」 竜糸の集落で医師として診療所を開いている未晩は、朱華にとっての養い親でもある。彼は十年前の流行病で孤児となった朱華を拾ってくれたのだ。そして、朱華を見習いとして診療所に置いてくれたのである。 薬草にまつわる知識や怪我や病気の治療法、土地神がもたらす基本的な加護術や、古語の読解法に至るまで、彼は多岐にわたって朱華を導いてくれた。 命の恩人で、育ての親で、生きていくための知識を教えてくれる兄のようなひと。 あのときから、未晩の見た目は変わっていない。 生まれながらの銀髪でもともと老け顔だったからだと彼は笑うが、いまでも充分若々しい未晩のことを、朱華は好ましく思っている。 だから結婚のはなしがでてきたときも、頷けたのだ。 年齢差が親子ほど離れていても、彼となら穏やかに一生を過ごしていけるだろうと思ったから。 それなのに。 さいきんの未晩は、朱華に試すような言葉をあれやこれやと投げつけてくる。「自分を養育してくれたから、とか、義務みたいに思ってるのなら、いちど考え直した方がお互いのためかと思ったからね」 「そ、そんな風に考えてなんかいません!」 「ほんとうに?」 嘲笑まじりの未晩の声が、朱華の耳元を這うようにざわりと抜けていく。ここ数日、毎日のように耳にする、どこか熱を帯びた声色。それに付随する、身体を舐めまわすような視線。 さっきまでの穏やかな未晩はなりを潜め、いまにも襲いかかってきそうな獰猛さを秘めた暗緑の瞳がぎらぎらと朱華を狙っている。 まるで、欲情を抑え込んでいた彼の心の深層に潜む闇鬼が、我慢しきれずに浮かび上がってきたかのよう。 ――けれど未晩が内に隠したその鬼は、朱華が胸に秘していた、苦しみを食べて育ったのだ。「だって、師匠
「……はい」 素直に未晩の言われるがまま、朱華は着ている衣をはらり、はらりと脱ぎ落とす。 真っ白な陶器のような白い肌が、蔀戸の向こうから差し込んでくる月明りに照らされ、うっすらと朱を帯びていく。 未晩の前へ晒けだされた華奢な裸体は、彼に見つめられているだけで、胸元の蕾をツン、と尖らせていた。「すっかりいやらしい身体に育ったね」 「そんな……だって、師匠が……」 「そうだよ。夫婦神に認められるためには、結びつきを高めるため、快楽に素直になる必要がある」 そう言いながら朱華の胸元へ手を伸ばした未晩は、先端に触れるか触れないか曖昧な距離をとりながら、乳暈の周囲を繊細な指先でくるくると撫でていく。 それだけで朱華の身体はビクっと震え、下腹部にちからが籠る。「あ、はぁ……」 「絶頂を迎えることに慣れないと、契る際に朱華を苦しめてしまうからね」 ようやく濡れはじめた秘処の入り口に指を埋めて、未晩は満足そうに微笑む。 けれど未晩の指に犯された蜜口はまだ堅く、朱華は快楽よりも痛みを覚えてしまう。「んっ……きつい、です」 「まだ蕾の状態……か。じゃあ、朱華の好きなところを愛してあげるよ」 「あああっ!」 くぃ、と秘芽に爪をかけられて、朱華の身体に痺れが走る。 その瞬間、つぅ、と蜜口から愛液が涙のように流れ落ちた。「……いやっ」 恥ずかしさと痛み、そしてほんのすこしの気持ちよさが朱華の意識を混濁させていく。 いやだ、と口にしても未晩は嬉しそうに指を滑らせ太腿のあわいを撫でつづけている。「いやがらないで。気持ちよくなる朱華の色っぽい表情は、とても綺麗だ」 「あ、ふっ」 「もっと、その蜜を溢れさせるといい。やがてその蜜は、究極の桜蜜となるのだよ」 寝台に押し倒され、身体中にくちづけの雨が降る。 慣れ切ったはずの口づけも、身体の敏感な場所に刻み付けられる都度、違和感とともに甘い疼きを生み出していく。 そう。 毎日のように朱華は未晩の腕
周囲を見渡せば、純白の八重桜が天空に届きそうなほどまで花枝を伸ばしている。 朱華は真っ赤な袿を羽織った姿で、その中心に立っていた。 ――が来たわ、娘が来たわ。 これは夢だ。そうわかっているのに、朱華はいつも同じ言葉を空に向けて投げかけてしまう。 「そこにいるのは誰?」 返事はない。 けれど朱華の声に反応するように、白い桜の花枝は腕を伸ばすようにぐんぐんと拡がっていく。 白い桜に覆われていた世界に、空色の雫が溶け込んでいく。 太陽が顔を見せ、朱華の身体をひかりが貫く。 熱さを感じないひかりは、そのまま四方へ散っていく。 朱華の玉虫色の髪は深い緑色に煌めき、白き桜をも魅了する。 すぐさま熱風が巻き起こり、白い桜は灼熱の空気に晒されその美しい姿を焼かれ、墨色の花びらが朱華の足元へ積もっていく。 ゆうらり、と浮かび上がる人影は紅蓮の髪と紫苑色の瞳を持つ、見知らぬ男。常人とは異なる、猛々しい雰囲気を持った、それでいて神々しさを持つ美しい男。 「――我が名は茜桜」 せんおう。 唇が紡ぐ音は、懐かしさを彷彿させる。 けれどその名を朱華は、知らない。 「ごめんなさい、わからないの」 茜桜と名乗った男はそんな朱華を気にすることなく、天へ向けて手を翳す。 呟かれたのは、神々とともに生きたカイムの民が使ったとされる|古《いにしえ》の言葉。 いまとなっては神術を扱えるごく少数の人間しか使わなくなった|神謡《ユーカラ》の古語。 朱華の亡き母が子守唄のように歌ってくれた、北の大地の神々の謡。その神謡自体はいまも息づいているが、母のように完璧に諳んじることのできた人間は、いまでは殆どいないはずだ。 けれど、茜桜は容易く神謡を吟じ、術を使った。 雪を呼ぶ呪文だった。 たちまち桜は姿を消して、冷たい雪に包まれて
* * * 朝陽の来訪とともに朱華が覚醒したとき、耳にしたのは取り乱した未晩の声だった。複数の気配が自分の周囲に漂っている。土地神の強い加護を持った人間が、ひとり、ふたり、さんにん。三人とも真っ白な絹の上衣を纏っている。まるで神官みたいな浄衣。 朱華が目覚めたのに気づいたのか、燃えるような緋色の髪の少年が「やぁ」と場違いなほど爽やかな笑みを投げかけてくる。なんだか夢のつづきのようだ。 けれど夢にしては生々しすぎる。朱華の身体は三人の闖入者が放つ神々しい加護の気に触れて熱を帯びはじめている。自分と未晩以外の術者を知らない朱華はまるで古民族が現れたかのような状況に、声も発せず震えるばかり。 土の上に横たわった師匠は何を叫んでいるのだろう。あまりにも甲高い声で、すべてをききとることはできない。ただ、首をひたすら左右に振って、彼らの言葉を拒絶している。あんな風に興奮した彼を見たことなどいままで一度もなかった。 自分はどうすればいいのだろう。おろおろ見守っているだけでいいのだろうか。そんな困惑しきった表情を悟られたのか、緋色の髪の少年が「大丈夫だよ」と改めて微笑みかけてくる。その隣にいた長身の蒼い髪色の青年も頷き、朱華に柔らかい口調で囁きを零す。 「きみの師匠は鬼に憑かれている。払ってあげるから、安心なさい」 その言葉で、朱華はようやく我に却った。そしてこの三人の正体にも。 「……桜月夜」 桜月夜の守人。その名を竜糸に暮らす民のなかで知らない人間はいない。 彼らは土地神が張った結界を護る代理神に仕え、この土地に現れる鬼を日々退治するという任務を負った神職者たちだ。外から侵入してくる幽鬼だけでなく、稀に人間の心の闇に巣食う闇鬼にも目を光らせ、他人を害そうとするそのちからを払いに来る、神殿の優れた守人たち……未晩のように数多の神術を扱えても外法遣いと蔑まれることの多い流れの人間とは異なる、選ばれしもの。 「出てって!」 朱華は思わず叫んでいた。 自分と未晩のことを何も
「ウラヒカン? なに……」 きいたことのない言葉が朱華の耳に届く。 けれど男は未晩の言葉を無視して硝子のような琥珀色の瞳で朱華に向き直り、言葉を遮る。「こちらこそ訊きたい。お前はこの男の何を知っているんだ? お前はこいつに何を求め、その見返りに何を与えようとしていたのか?」 氷のような視線を投げかけられ、朱華は言葉を震わせる。「し、師匠は、あたしが孤児になったのを拾ってくれて……」 「どうして孤児になったんだ? それまでお前はどこで何をしていた?」 厳しい言葉が朱華に襲いかかる。未晩は抵抗を諦めたのか、がっくりと頭を垂れて呻き声を漏らしている。「朱華は、十年前の流行病で親を失ったんだ。それで」 「お前には訊いていない。神無(かむなし)の逆さ斎」 遮るように言い返した男の言葉に、朱華は目をまるくする。「……え? サカサイツキ?」 ――師匠は逆さ斎なの? 至高神に愛された『天(カシケキク)』の末裔じゃないの? 朱華の問いかけるような視線を受けた未晩は、ふっと淋しそうに微笑を浮かべ、しずかに頷く。 翡翠色の瞳に、陰りが生まれる。「まさか僕のことを知っているとはな。さすが桜月夜」 「里桜(さとざくら)さまはすべてお見通しですから」 場違いなほど朗らかな緋色の髪の少年の声が、緊張しきっていた空気を知らず知らずのうちにほぐしていた。 里桜。 それは竜糸の竜神に仕える、竜神の声をきくことのできる少女が持つ特別な役割で、神の代理を務める少女の呼び名。「その里桜さまの命で、君たちは来たのだろう? 僕のなかの鬼を払うなど、そのついででしかない。そうだろう?」 すべてを悟ったのか、未晩が穏やかな声色で尋ねると、三人のなかで一番礼儀正しそうな蒼い髪の青年が笑顔で応える。「そうですね。逆さ斎である貴方なら鬼に身を滅ぼされるという可能性は殆どないでしょうからね。闇の瘴気を竜糸の地にばらまかない限りは、危害を与えるつもりは
* * * わからないのならば仕方がない。 十年先、汝の生まれし日が訪れるそのときまで俺のちからは封じられたままなのだから。 だが、我が遺した膨大なちからを、母神に預けたフレ・ニソルの加護を汝の成長した心身に解き放つときが来たれば、すべては安易に理解できよう。 朱華(あけはな)――汝、ルヤンペアッテの眠れる竜たちとともに、異界の幽鬼を斃すちからを持った、選ばれし裏緋寒の愛玩乙女よ…… * * * ――ずっと、曖昧だった夢の最後の言葉が、朱華の耳元に囁かれていた。 「茜桜……?」 目の前では怒りに身体を震わせた未晩が、朱華の肩を強く抱いたまま、神術で桜月夜へ攻撃をつづけている。未晩の身体は闇鬼に乗っ取られてしまったのだろうか? けれど、桜月夜の三人の守人は未晩からの攻撃を防ぐだけで、攻撃することがない。未晩とともに朱華まで害する危険があるからだろうか。 朱華の囁きに、未晩が顔を強張らせる。「まさか、記憶が……?」 未晩の言葉に、朱華は無言で首を振る。何かが違う。朱華は茜桜などという男といままでに逢ったこともなければ名前すら知らなかった。つい十日前から夢にでてきて意味不明なことを朱華に語りつづけていた不思議なひと。いきなり封印がどうのこうのなどと言われても理解できるわけがない。 そんな朱華に安心したのか、未晩がふっと柔らかな笑みを見せる。ふだんと同じ、ふたりきりで暮らしているときの、穏やかな微笑。 だが、そこを夜澄は見逃さなかった。 「Asusun asusun tussay matu――綱の輪を引け我が竜蛇!」 朱華の肩を抱えていた未晩の腕が、地中から現れた湾曲した蛇のような細長いものによって引き離され、朱華の身体が宙に浮く。悲鳴をあげる間もなく朱華の身体は夜澄に奪われていた。 唖然とする未晩を颯月が瞬時に昏倒させ、星河がほうと息をつく。「神無の逆
ひとと神とがともに生きる”かの国”が産声をあげたのは数千年ほど昔のこと。 ぽかりと海に浮かぶよっつの小大陸とそこへ連なる星屑のような島々が国の領土とされた。 東西南北、北から南へ流れるように縦に細長いその国の最高権力者は、神皇帝(しんのうてい)と名乗った。 神皇は国民からこの国を興した国祖とされる始祖神の『地』の加護を宿した息子と慕われ、その玉座は代々、始祖神の血を引く皇(すめらぎ)一族によって、継承されている。 彼らは始祖神だけでなく、彼の姐神とされる天空を統べる神――至高神が産み落とした『天』のちからを持つ人間とも関係を持ち、国の統治を確かなものにしていた。 だが、東西南北の小大陸のなかで、北に位置する北津海(きたつうみ)の大陸……北海大陸だけは、神皇の『地』のちからが通用しなかった。 古代より神々と幽鬼と呼ばれる異形のモノとが争うその北の大地には、すでにその土地神と呼ばれる至高神の数多のこどもたちが、始祖神が人間の息子と国を興す以前より、この土地で生きていた先住民のために、幽鬼と対抗するためのちからを各々に振りまいていたからである。 先住民たちは部族ごとに『雨』、『風』、『雷』、『雲』、『雪』の加護を持っていた。集落ごとに異なる土地神に護られながら暮らす彼らは加護のちからの強弱関係なしにカイムの民と呼ばれ、土地神とともに幽鬼からの脅威と戦っていた。 そのことに深く感銘したときの神皇は、すこしでも力になればと帝都にいた『天』の少女をカイムの地へ送り出した。彼女は土地神たちの連携を強める巫女姫として活躍し、カイムの地で『雲』の男性との間に子を残した。天神の娘と呼ばれた彼女の子孫は『天』のちからを引き継ぎ、各集落の土地神とともにいまもなお神職に携わっているとされる。 しかし、三十以上存在していた集落も、激しい幽鬼との争いで気づけば十二にまで減少し、土地神が与えた加護を持つ主要な部族も『雨』、『雪』、そして少数部族の『風』のみとなってしまった。 なぜなら、集落の要である土地神にも、人間同様に寿命というものが存在したから…… 幽鬼との戦いで命を落とした神をはじめ、千年近い天寿を
* * * 「……って話は師匠からきいたことがあったけど。まさか自分がその神嫁?」 信じられないと朱華は溜め息をつき、目の前に並ぶ昼餐に困惑する。 それは、青菜と芋と雑穀とわずかな味噌で生活していた朱華には考えられない豪勢な食事。 竜糸の最南に面する|冠理海《かんむりかい》より朝一で運ばれてきたのであろう新鮮な魚は刺身にされ、透き通った菊の花のように青磁の皿の上を飾っている。野菜は|美蒼岳《びそうたけ》の麓で採れたものだろう、新春の悦びを表現するかのように|款冬《ふきのとう》や|接骨木《にわとこ》の黄緑の若芽が目にも鮮やかな天ぷらにされている。 見慣れない肉はどうやら鹿を焼いたもののようだ。鼻孔に香ばしい匂いが届き、思わず湧き上がる唾液を呑み込んでしまう。 そのうえ、炊きたてのつやつやの白米には|乳酪《バター》が乗せられ、トロトロと溶けながら芳しい香りを漂わせている。そのままでも充分美味しそうなのに、醤油や塩を好みで乗せて桜月夜の三人は気兼ねなく食べている。 朝食を食べ損ねた朱華はおそるおそる椀を手にとり、みそ汁を啜る。みそ汁にも魚が入っていたが、生臭さがまったくなかった。みそ汁を口にしたとたん黙り込んでしまった朱華に、颯月が咀嚼しながら話を切り出す。「信じたくないのは仕方ないけど、ボクたちは里桜さまに命令されてキミを連れてきんだ」 「不安なのは仕方ないでしょうが、悪いようにはしないとおっしゃってましたよ」 颯月の言葉に同調するように、星河もにこやかに応える。だが、夜澄だけは仏頂面のまま、何も言わずに箸を動かしている。 朱華は曖昧に頷いてから白米を口に運ぶ。黄金色のとろける乳酪が絡んだ米粒は朱華の想像以上に美味なるものだったが、表情を変えることはできなかった。「……もっと美味そうに食え」 そんな朱華を横目に、夜澄がぼそりと呟く。けれど、夜澄の声を朱華はあっさり無視する。 たしかに、美味しい。だけど、表情が追いつかない。なぜ、自分は、神殿に召されて、こんな高貴なひとしか味わえない食事をしているのだろう。あのまま、未晩を置いてきて、
「――九重(ここのえ)?」 ふたりの邂逅を見守っていた桜月夜の守人たちが固唾をのむ。 朱華の菫色の瞳に射られた里桜もまた、声を失っていた。 「九重だよね? 瞳と髪の色が違うから、一瞬わからなかったけど……覚えてる?」 ……彼女が、裏緋寒なのか? 竜頭さまの、花嫁として至高神が選んだ乙女なのか? 混乱する里桜を前に、朱華は嬉々とした表情を保っている。「あたし……あ」 だが、その顔色が一変する。まるで思い出してはいけない過去に触れてしまったかのように。隣にいた夜澄が慌てて朱華を抱きかかえ、背中をさすっているが、顔色は変わらない。 当然だ。 彼女は雲桜の禁忌に触れた、集落の結界の留め金を外した、赦されざる罪人なのだから。 その彼女が、里桜の家族を殺し、故郷を血で染め上げた幽鬼を招き入れた元凶だというのに。 ――それでも神々は、彼女を選ぶのか! 自分が必死で護る竜糸の土地神の花嫁を、この罪深き少女に担わせるというのか? 「その名で呼ぶな」 いつも以上に厳しい声で、里桜は蒼白な表情の朱華に告げる。「貴女と慣れ合うつもりはない! 記憶を改竄されたときいたけど、身体はすべてを忘れていたわけではないのでしょう? 暢気に忘れたふりでもしているんじゃないかしら?」 九重。 それは里桜が逆さ斎になる前に呼ばれていた彼女の名前。 そして目の前にいる朱華もまた、ふたつ名を持っていた。里桜が逆井というふたつ名を与えられる、ずっとずっと前から。 ふたつ名。 それはカイムの民のなかでも特に強い加護を持つ者にしか許されない、神々が呼ぶ真実の名。 朱華は、雲桜の集落で、幼いころからふたつ名を賜れた、唯一の少女だった。 「あ……」 「ようこそ。記憶がないのならば、無理にでも思い出させてあげる。雲桜を裏切った、愚かな紅雲の娘よ」
* * * 神殿の離れにあるこぢんまりとした室(へや)が、朱華が身を置く場所になった。ちいさいながらも装飾は凝っており、真珠の粉を混ぜ合わせたような白い光沢感のある壁には姿見のようにおおきな円形の窓がつけられている。蔦模様の窓枠のなかへ手をのばせばそこは空洞になっておらず、空気のように透明で薄い玻璃が膜を張っているかのように填めこまれているのが確認できた。窓の向こうには竜神が眠る湖と蕾から花へと姿を変えつつある白や薄紅色の菊桜の樹々がよく見える。 外つ国より海を渡ってやってきた硝子細工はまだ高貴な人間にしか許されない、珍しいものだというのに、竜糸の神殿では至る所に硝子が使用されている。壊さないように気をつけなければと場違いなことを思いながら朱華は備え付けの寝台の上へさきほどまで着ていた衣を脱ぎ捨てていく。 さきほどの身体検査などまるでなかったかのように夜澄は自分に接しているため、朱華もひとまず気にしないようにふるまっている。さすがに自分の秘処を舐められるとは思ってもいなかったけれど…… そんな夜澄は朱華のことを雨鷺に頼んで、室の外の扉の前で待っている。 軽く夕食をいただいてからあらためて雨鷺に身支度を手伝ってもらった朱華は、いっそう華美な猩々緋(しょうじょうひ)の糸で刺繍された菊桜が咲き誇る月白(げっぱく)の袿に着替える。 「……なに?」 「いや。馬子にも衣装だ……」 「悪かったわね!」 着替えを終えた朱華は夜澄に連れられて神殿へ戻る。そして代理神が座す湖畔の間に入った。 硝子が張り巡らされた壁の向こうには、竜神が眠る湖と、湖に反射しながら煌々と輝く銀のふたつの月がゆらめきながらも鋭い刃物のように交差している風景がのぞめる。その月明かりに照らされるように、室内もまた、ゆらぎと淡いひかりを帯びている。陽が沈んだとはいえ、月のひかりが存分に入るこの空間は、夜を忘れさせるほど、眩しかった。 遠目から見ても鮮やかな袿姿の少女が、朱華の姿に気づき、顔をあげる。 朱華は俯いた状態で一歩一歩、夜澄に手を引かれながら、しずしずと里桜の前へ進んでいく。
「どう思う?」 「……なんで振るんですかわたしに」 朱華を襲った巫女を地下牢へ入れたのち、里桜への報告のため颯月とともに訪れた星河だったが、ほとんど言いたいことは言われてしまった。残された星河は里桜の言葉を受けて、硬直している。「客観的に物事を分析するためにあなたの意見もききたいと思ったのよ」 「そうですか」 なかば諦めたように星河は笑う。自分より十近く年齢の離れた少女に言われても説得感があるのはやはり選ばれた代理神の半神だからだろうか。「ですが、わたしがどう思おうが、里桜さまはそのままでいいとお考えでしょう?」 裏緋寒として神殿に入った朱華には自分の加護に関する記憶が失われていたという。カイムの土地神の加護のことを、逆さ斎の里桜は浅くしか知らない。大樹がいないいま、知識を与える適任者は竜頭が起きていた頃を知る夜澄しかいないのも事実だ。里桜は頷いて、話を変える。「はぐれ逆さ斎が記憶を改竄したんですって? 至高神に逆らってまで、彼女を自分のモノにしようとしたなんて……」 それともこれも、至高神が采配を施しているのだろうか。いまここに大樹がいれば真意を問えるのに。里桜は悔しげに口元を歪める。「その逆さ斎なら、颯月が瘴気を払っております。問題はないかと」 「大ありよ! 代理神が不完全ないま、瘴気を払って放置しただけなんでしょう? ……すでに竜糸の結界は綻んでいる。払っても払っても根本を断たなければ同じことを繰り返す可能性がある……もし、裏緋寒を諦めきれずに彼が自ら闇鬼のために瘴気を取り込んだら?」 相手は逆井の姓を持たないとはいえ、自分と同じ逆さ斎だ。ひととおりの術式も扱えるに違いない。記憶まで操ることが可能なことを考えると、至高神に預けられたちからを持つ朱華を保護していたという未晩はかなりの術者のようだ。まぁ、それだから裏緋寒の番人として至高神に重宝されたのかもしれないが…… そんな未晩が、神殿に乗り込んできたら……大樹がいない、竜頭が眠ったままの状態で対抗するのは厳しいだろう。そう指摘されて、星河の表情が青くなる。「……それは」
* * * 「それだけですか?」 「夜澄が彼女の面倒をみてくれるというのなら、あたくしがしゃしゃりでるのもどうかと思うわ。守り人が神嫁を教育すること自体、別におかしなことはないでしょう?」 里桜は神殿内で闇鬼に堕ちた人間が現れた報告を颯月から受け、ついに来たかと嘆息する。しかも裏緋寒の乙女として迎えたばかりの少女を殺そうとしたという。桜月夜によって辛うじて難を逃れたというが、この先も同じようなことが起きる可能性は高い。土地神の花嫁となるものなど、幽鬼にとってみれば邪魔でしかない。彼女の正体が知れれば、眠ったままの竜頭より先に葬ろうとするだろう。 そこで夜澄が珍しく自ら彼女の護衛につくと言いだしたらしい。ふだんは厄介なことほど星河や颯月に押しつけてふらふらしているくせに、と反発を覚えながらも、桜月夜のなかでいちばん強いちからを持っているのは彼だったなと里桜は思い直し、素直に受け止める。彼が裏緋寒の乙女を護る気でいるのなら、任せた方がいいだろう。竜頭の花嫁となるであろう少女だ、意地悪などしないと思いたい。 だが、颯月はすこしばかし不満らしい。たしかに、大樹が不在のなかひとり代理神を務める里桜よりも裏緋寒の乙女を優先する姿は、神殿内でも疑問の声があがるだろう。このまま彼が裏緋寒の乙女を自分のものにするのではないかと危惧する声がでてくるのも時間の問題かもしれない。きっと颯月もそう思ったから、里桜に意見したのだ。 裏緋寒の乙女が眠りから醒めた竜神の花嫁にすんなりおさまるためにも、夜澄ひとりにまかせっきりにするのが不安だから、颯月は里桜の前で途方に暮れた顔をしているのだ。「でも……」 「颯月。あなたは夕暮れまで引き続き大樹さまの居場所をあたってみてほしいわ。『風』の加護を持つあなたしか、長い時間集落の外をでて動くことができないのだから」 桜月夜だからといって、常に一緒に行動する必要はない。それぞれが持つ加護のちからを最大限に生かして、この危機的状況を打開する方が大切である。 それに、過去を知る夜澄が過激な花嫁修業をひとりで担ってくれることに、どこかでほっとしている自分もいた。土地神と契る
――けれど朱華はもう、ここのつの幼子ではない。「それまでにあたし、記憶を思い出す。それで、里桜さまとともに竜神さまを起こすから!」 未晩に甘やかされたまま、怖い夢や漠然とした不安など、いままで彼が飼っていた闇鬼にぜんぶあげていたけれど。 それじゃあいけないんだとぎゅっと拳を握りしめる。「そしたら、戻ってきたちからを使って大樹さまを探すお手伝いもするし、竜神さまに認められる花嫁になれるよう修業も頑張る!」 目の前にいる彼に誓いたかった。迷惑だと思われても、声にだしてこの決意を伝えたかった。竜神が眠りにつく前から守人をしている彼のために、心の底から役に立ちたいと思ったのだ。「お前……なぜそこまで」 困惑する表情の夜澄を見ても、朱華の気持ちは変わらない。彼が自分たちの『雲』の民を見捨てたことを後悔している姿を、責めるのは見当違いだ。そんなことをしても死んでしまった命は還らないのだ。それならいま、自分にできることをして、雲桜のような悲劇を防ぎたい。「なぜって。もう誰にも死んでもらいたくないからよ?」 当然のように返す朱華に、夜澄が呆気にとられている。 もう誰にも死んでもらいたくない。朱華の心の奥底から自然と湧きあがるように生まれた言葉。 それは記憶がない状態でも、揺らぐことのない、本心だった。「――ならばまずは、お前が真実(まこと)に桜蜜を分泌させる処女(おとめ)たるか、この場で確認させてもらおう……下衣を脱いでくれ」 「……えっ」 そんな朱華の覚悟を前に、夜澄が申し訳なさそうに宣言する。 そして、座っていた椅子から立ち上がり、朱華に被せていた己の上衣を剥ぎ取り、脚をひろげさせる。 恥ずかしい格好のまま、下半身を晒せと命じられ、朱華は目をまるくする。けれど、竜神の花嫁になるためには必要なことなのだと理解し、菫色の瞳を潤ませたまま、言われるがままに下衣をおろす。 夜澄によって治療された場所が、妙に疼く。「さわるぞ……まずはちいさくて可憐な花の蕾から」 「……あっ、そこはだめっ…
「え、じゃあ、裏緋寒の乙女ってのは竜糸の竜神さまの花嫁って意味ではないの?」 「表緋寒と裏緋寒はカイムの神殿用語だ。表緋寒は神職者として土地神に仕える女性や、土地神の加護が強い既婚女性。神嫁の別称でもある裏緋寒というのは神職者ではないが強い土地神の加護と神々を悦ばせる桜蜜を持つ未婚女性で……率直に言えば神の子を孕める器の持ち主のことだ。だから集落によっては神に弄ばれる愛玩花嫁などと蔑む場所もある」 「それで、師匠も知っていたのね」 未晩が逆さ斎なら、神殿用語にも詳しいはずである。「だろうな。神無の地を離れたはぐれ逆斎のようだが、お前を大事に扱っていたことを考えると、至高神が彼にお前を託したのかもしれん。あの天神は目的のためならどんなことでもするからな……」 ぼそりと呟く夜澄のぼやきを朱華は聞き逃していた。至高神が自分に関わりを持っていると明かされた時点で、すでにあたまのなかはぐちゃぐちゃになっているのだ、これ以上あれこれ言われてもすべてを飲み込めるほど朱華は器用ではない。「……と、とにかくカイムの集落の土地神の後継をもうけるため、至高神が竜糸の眠れる竜神さまの花嫁として、もうすぐちからを返却する予定のあたしを指名したってこと?」 まあな、と首肯しながら夜澄は苦い顔をする。「だが、逆さ斎が記憶を書き換えたことでお前は自分が何者かわからないまま、今日まで来てしまった。おまけに、お前のちからが預けられた状態のまま、半神である大樹さまが行方知らずになってしまった……いま、竜糸の結界は表緋寒ひとりで保たせているのが現状だ」 「だから、瘴気が神殿内にまで侵入しているの?」 「それにしては瘴気の量が多いのが気になるが。すでに幽鬼に気づかれた可能性も考えておかねばならないな」 「そんな」 ほんのすこし負の感情に傾いただけで、闇鬼に憑かれて自分を殺そうとした巫女を思い出し、朱華は身震いする。それを怯えと捉えたのか、夜澄は子どもをあやすようにそっと、彼女の玉虫色の髪を梳きはじめる。「もう、ひとりにはしない。お前が竜頭の花嫁として迎えられるそのときまで、桜月夜の総代として、俺が護
「――ああ」 息をのむ。 半ば強引にこじ開けられていく記憶の抽斗から、ぽろりぽろりと朱華の脳裡に断片が溢れだす。 いまから十年前。 朱華の両親は竜糸を襲った流行病で死んでしまったと未晩は言っていたけれど……それは、嘘だ。 雲桜の花神。 朱華は彼のことを知っていた。 茜桜。 彼こそが、自分の生まれ故郷の土地神、で――…… 「竜糸の竜神、竜頭は、茜桜と親しかった。だから、雲桜が幽鬼によって滅ぼされた際に、神殿は落ちのびた『雲』の民を匿った。当時の代理神は加護を失った彼らに『雨』のちからを分け与えたため、彼らはちからの弱いルヤンペアッテとなった」 「……あたしも、そのルヤンペアッテの加護を少しだけ分けてもらったんだね」「だが稀に、土地神が死んでも産まれた集落の加護を失わない人間もいる。お前の『雨』の加護のちからが微弱なのは、『雲』の加護を失うことなく竜糸の地に辿りついたからだろう」 「土地神が死んでも、加護が消えないなんてことがあるの?」 「ああ。雲桜が滅んだとき、竜糸では流行病が蔓延していた。『雲』の加護は治癒術に秀でていることから、代理神は加護を失わずに済んだ『雲』の生き残りに病の治療をさせたのさ」 未晩が朱華に言っていた、竜糸で十年前に起きた流行病というのは嘘ではなかったようだ。うん、と頷く朱華に、夜澄は自嘲するように言葉をつづける。「神殿は集落を失った難民を引き取るかわりに、『雲』のちからを自分たちのものにしようとした。でも、それは一時的なものでしかなかった。『雲』のちからは『天』に等しくときに世界を動かすんだ。竜神が眠った状態で竜糸の神職者たちが求めてはいけないちからだったのさ」 世界を動かすといわれる『雲』のちから。そして、それを欲した竜糸の神殿勢力。けれど、夜澄の言葉は、『雲』のちからを神殿が取りこむことに失敗したことを示していた。「それってどういう……」 「病の終息とともに、『雲』のちからを持っていた生き残りが死んでいった。病人が持っていた瘴気が、集落を滅ぼされ
「ふうん。夜澄は詳しいんだね」 「俺があの三人のなかでいちばん古株なだけだ」 だから自然とお前の面倒を押しつけられるってわけだな。と、毒づきながら、夜澄は朱華が被った浄衣をぺろりとめくると傷ついた身体に治癒術を施しはじめる。露わになっ太腿に夜澄の手があてられ、朱華は慌てて撥ね退ける。「こ、これくらい平気だって!」 「あいつらは俺にお前の事後処理を任せて出て行ったんだ。おとなしく治療されろ」 「治癒術ならあたしひとりででき……痛っ」 「血が止まってないのに興奮するからだ。それに、さっきまで闇鬼とやりあってちからを使っただろう? 消耗してるときに自分で治癒術をかけたりしたら逆に回復が遅くなるぞ」 「……はーい」 赤面したままの朱華は渋々頷き、夜澄に身体を寄せる。緊張しているのが伝わったのか、夜澄は朱華の手を取ると、室の奥に並ぶ石の箱に連れていく。どうやらあれは椅子だったらしい。 朱華を座らせ、夜澄は手際よく術を発動させていく。太腿に負わされた傷だけでなく、身体中を掠ったちいさな傷も、夜澄が唱えたどこか懐かしさを抱かせる言葉によってあっという間に消えていった。彼もまた、古き時代の神謡を深く識る神に携わる人間なのだと朱華は痛感し、ふと疑問に思う。「あの」 「なんだ?」「夜澄は、いつからここにいるの」 桜月夜の守人のなかでいちばん古株だと口にしていたのを思い出し、朱華は問いかける。夜澄はしまった、というような表情を浮かべたものの、朱華の問いに正直に応えを返す。「竜頭が眠りにつく前から」 「……それって、百年以上前のことでしょ? 冗談」 「冗談だと思いたければそう思えばいい。でも、俺は竜頭のことを知っているし彼に頼まれたからずっとこの地で結界を護る代理神の補佐をつづけている」 琥珀色の瞳は淋しそうに煌めき、黙り込む朱華をしずかに見下ろしている。「だから、大樹が消えたいま、お前が必要なんだ」 ――竜神の、竜頭の花嫁になってくれ。 夜澄が朱華の前へ跪き、切実な想
「……まさかこんなところまで鬼が侵入しているとはな」 颯月に助け出された朱華は悔しそうに呟く夜澄の言葉に顔を向ける。「えっと、それってどういうこと?」 氷の刃によって切り裂かれた袿をぎゅっと抱きしめて、朱華は尋ねる。夜澄は自分が着ていた白い浄衣を無言で脱ぎはじめ、ひょいと朱華に投げつける。「そんな恰好でうろちょろするな」 「……す、すいません」 闇鬼に襲われた朱華の恰好は見るも無残な状態になっている。長身の夜澄の浄衣を受け取った朱華は慌てて被り、素直に謝る。「いえ。謝るべきなのはわたしたちの方です。神殿内だからと貴女をひとりにしてしまい、このような目に合わせてしまうとは……」 「ごめんね。もうこっちに来てるとは思わなかったからさ」 どうやら桜月夜は朱華がまだ雨鷺とともに身支度をしていると思っていたらしい。そのため里桜との面会の場に入る前に別の場所で一仕事していたようだ。そこで闇鬼の気配を感じた颯月が飛び込んできたということだろう。朱華は平気だと首をぶんぶん振って言い返す。「あ、あたしは大丈夫です! こう見えても神術はひととおり取得してますし、身のこなしだってふつうの女の子に比べたらぜんぜん」 「震えてる癖に何強がってんだよ」 小声ながらも厳しい夜澄の言葉が投げつけられ、びく。と、朱華の肩が反応する。 けれど、その声はすでに闇鬼に堕ちた少女の処遇について話しはじめた他の桜月夜の耳には届いていないようだ。「そ、そんなこと……」 慌てて夜澄に反論しようとして、朱華は言葉を切る。夜澄の琥珀色の瞳が、険しく揺れていた。「神殿内には竜頭……竜糸の竜神さまの名だ……の花嫁に選ばれたお前のことを素直に受け入れられない人間もいる。それに、瘴気を塞ぐ結界が緩んでいることもあって、この神殿にも悪しき気配が侵入しやすい状態になっている。さっきお前を襲った巫女はお前さえいなければ自分が竜頭の花嫁になるのだと潜んでいた闇鬼に囁かれでもしたのだろう」 神殿に仕える巫女は土地神にすべてを捧げる運命にある。彼女たちが土地